■ 「お父さんお母さんと私はがんばりました」

ー風疹をなくそうの会「hand in hand」共同代表の可児佳代さん(64)の長女、妙子さん

18歳で亡くなった時の最後の言葉



風疹をなくそうの会「hand in hand」共同代表の可児佳代さん(64)の長女、妙子さんは、可児さんが妊娠中に感染した風疹の影響で先天性風疹症候群(CRS)にかかり、2001年、心臓の機能が衰えて短い命を終えた。

そして、2018年の今、再び風疹が関東地方を中心に流行し始めている。

ワクチンを2回うてば免疫はつく。しかし、1990年4月1日以前に生まれた人は、受けていても1回のみ、1979年4月1日以前に生まれた男性は全く受ける機会がなかったため、十分免疫を持たない人が数多くいるからだ。

可児さんは言う。

「ただただ悔しいとしか言いようがありません。こんな思いをもう誰にもさせたくないのに、私はまだ娘の宿題を終わらせられないでいるのです」


不妊治療でようやく授かった子供

22歳で結婚した可児さんはなかなか妊娠せず、結婚3年目で不妊治療を開始。通院2年目で初めて妊娠したが3か月で流産した。気がつけば涙が出る日々が続いた。

その9か月後の1982年、熱や発疹が出て、耳の後ろのリンパ節が腫れた。前年から風しんが流行しており、近所の内科に行くと「風疹だね」と診断された。自宅周辺では感染者は出ていない。不妊治療の通院で感染したのだろうと思った。

生理が遅れているのが気になったが、「先月も妊娠していなかったし、今月もできていないだろう」と最初はそれほど不安に感じていなかった。だがしばらくしても生理は一向に訪れない。

(もしかして......)

不妊治療の産婦人科医に行くと、妊娠していた。呆然とした。

「当時は、テレビでもラジオでも、『妊娠中に風疹にかかったら障害児が生まれるから、妊娠はあきらめましょう』と平気で言う時代だったんです。この妊娠は諦めなくてはいけないのだと絶望的な気持ちになりました」


治療を繰り返す 目の手術や難聴の訓練

やるせない気持ちを、娘を産んだ産婦人科医院の医師の手紙にぶつけた。

「不妊治療をしている間にいくらでもワクチンをうつ時間はあったのに、なぜ? 地獄に突き落とされたような気持ちです」

すぐに家に会いにきた医師は、「ワクチンをうつと2ヶ月間は避妊しなければならないのでその時間がもったいなかった」と弁解した。悔しかったが、医師を責めても娘が元気になるわけではない。

「自分の家族だと思って治療の病院を紹介してください」と頼んだ。

名古屋の大きな眼科専門病院を紹介され、その院長は「必ず治してやる。見えるようにしてやるからな」と言ってくれた。生後 5か月、7か月で2回手術をし、ソフトコンタクトレンズを入れて矯正した視力で0.3程見えるようになった。

「赤いものから反応しますと言われて、家の中を赤いものでいっぱいにしました。反応するようになり、首もすわるようになってとても嬉しかった。赤ちゃんだから目をこすってしまい、コンタクトレンズを入れ直すためにしょっちゅう通院することになりましたが、希望が湧いてきました」

1歳を過ぎた頃には耳を診てもらったが、手術では治せない状態で、補聴器をつけて訓練することにした。

「最初は、私が頑張ればこの子を”普通”にできると必死でした。でも、この子はこの子らしくいてくれればいい、娘の障害を受け止めて笑顔で過ごそうと思い直しました。そう決めると少しずつ絵や写真を使ったサインを使って、『お風呂』や『おしっこ』など簡単なコミュニケーションができるようになったのです」




「たえちゃんの命は半年か1年です」 心臓手術へ

年子の長男も生まれ、穏やかな生活が続いていた幼稚園の年長に上がる矢先、経過観察のために心臓の検査を受けた循環器内科で、「妙ちゃんの命は半年か1年です」と告げられた。

「動脈管開存症」ーー肺動脈から大動脈へつながる血管が閉じずに開いたままとなり、全身に流れるべき血液の一部が肺動脈に流れ、肺や心臓に負担がかかる病気だった。

幼い体にまたメスを入れることになった。

手術は成功した。だが、当時、主治医からは「この病気で成人するまで生きた記録はない」と告げられた。心肺同時移植しか治療法がないと言われ、薬で命をつなぐしかなかった。

「この子はいつか寝たきりになってしまうと思い、せめてきちんとコミュニケーションが取れるようになりたいと願いました」

小学生からは聾学校に進み、家族も手話を学んだ。

小学6年生の頃には、肺高血圧症が進み、少し歩いただけで「えらい(苦しい)」「辛い」と漏らすようになった。外出時には車いすを使い、夜寝る時には酸素を吸入させた。


18歳の冬、体調が急変 ベッド脇に手書きの手紙

体調は一進一退を繰り返しながらも、高等部にも進学し、パソコンやPHSの画面を使って言葉でのコミュニケーションも豊かになっていった。

素朴な風合いのはた織り、「さをり織」に没頭し、美しい作品を次々に紡いでいった。

「人とコミュニケーションを取るのが大好きになっていたので、高等部を卒業したら、クッキーを作る作業所に通わせようと思っていました。このままの生活が続いていくと思っていました」

雪が積もるほど冷え込んだ1月のある朝、学校に出かける支度をしていた時、いつもと違う深呼吸を繰り返した。

「えらい(苦しい)」

そばにいた弟が「息ができんのか?」と尋ねても返事がない。

緊急入院した4日後、静かに息を引き取った。18歳2か月の短い命だった。

「あまりに急で、私は受け止めきれませんでした」

葬儀を終えた後、夫が「死ぬ1時間ぐらい前に書いていた」と言って、病院のベッドの枕元に置かれていたというメモ帳を見せてくれた。

「お父さんお母さんと私はがんばりました」

娘が遺してくれた最期のねぎらいの言葉。涙があふれた。

「この言葉が、その後の私の人生を決めました。妊娠前に風疹をよく理解して、ワクチンをうっていれば娘にこんな思いをさせずに済んだのです。娘に宿題をもらった気がしました。私は娘のために頑張れているのか、その後ずっと私に問いかける言葉になったのです」
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同じ思いをする親子がいなくなるように HPや患者団体を作る

生きていれば20歳になった誕生日前日の2002年11月19日、娘の生きた証を残そうと、自身の体験談から先天性風疹症候群の啓発とワクチン接種を呼びかけるホームページ「カニサンハウス たえこのへや」を開設した。

娘とのコミュニケーションのために身につけたパソコンの技術だった。

すると、ぽつぽつと全国から「私たち親子も同じです」と母親たちが連絡をとってきてくれた。

当時は、先天性風疹症候群もあまり知られておらず、このホームページぐらいしかつながれる場所がなかった。小児科医らも連絡をとってきて、同じ悩みを持つ親子を紹介してくれるようになった。

その後、風しんの発生も一桁台になり、義父の介護に追われて発信も滞っていた頃、2012年から2013年にかけて、再び風疹の全国的な大流行が起きた。感染者の多くはワクチンの接種が徹底されていない20代から40代の男性だった。

この影響で先天性風しん症候群として生まれた赤ちゃんは45人にのぼった。

可児さんはNHKの取材を受け、2013年に朝のニュース番組で特集が組まれた。その特集に出ていた別の母親、西村麻依子さんの年齢を聞いて愕然とする。

「娘と同じ年の昭和57年生まれだったのです。この年、娘の十三回忌を終えたところで、この偶然に私は『お母さん、何やってるの?』と言われた気がしました」

インターネットで風疹予防対策を求める署名活動を始め、2013年6月、厚生労働大臣あてに要望書を提出した。

活動を継続しようと、その年の8月には西村さんと共に共同代表となり「風しんをなくそうの会『hand in hand』」を設立。「一人ではなくせないから、みんなで一緒に命を守ろう」という気持ちを込めて名付けた。